最高裁判所第二小法廷 昭和54年(オ)1104号 判決 1980年5月30日
上告人
山田秀夫
右訴訟代理人
表権七
被上告人
藤川恭利
右訴訟代理人
佐野實
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人表権七の上告理由第一点及び第二点について
約束手形の所持人と裏書人との間において裏書人の手形上の債務につき支払猶予の特約がされた場合には、所持人は右猶予期間中は裏書人に対して手形上の請求権を行使することができず、右猶予期間が満了した時はじめてこれを行使することができるものとなるから、所持人の裏書人に対する手形上の請求権の消滅時効は、右猶予期間が満了した時から進行するものと解するのが相当である(手形法七七条一項八号により約束手形に準用される同法七〇条二項は、所持人の裏書人に対する請求権の消滅時効の起算日を拒絶証書の日付又は満期の日と定めているが、右は、所持人が拒絶証書の日付又は満期の日から裏書人に対する請求権を行使することができる原則的な場合のことを定めたものであつて、これを支払猶予の特約がされた場合にまで適用することはできない。)。
これを本件についてみるに、原審の適法に確定したところによれば、第一審判決別紙約束手形目録(一)記載の約束手形の所持人である被上告人は、右手形の裏書人である上告人から、右手形の満期(昭和四七年八月三一日)の直前である昭和四七年八月二九日ころ手形金の支払の資金繰りがつかないことを理由に右手形を呈示しないでその支払を満期から四ケ月猶予して欲しい旨懇請され、これを承諾したので、右支払猶予の期間経過後一年以内である昭和四八年一〇月三一日本訴を提起したというのであるから、被上告人の上告人に対する右手形上の請求権は、いまだ時効によつて消滅していないものといわなければならない。
したがつて、これと同旨の原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
同第三点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当とし是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(木下忠良 栗本一夫 塚本重頼 鹽野宜慶 宮崎梧一)
上告代理人表権七の上告理由
第一点 原判決は、本件請求にかかる約束手形三通共について、各支払期日(甲第一号証の手形の支払期日は昭和四七年八月三一日、甲第二号証及同第三号証の各手形の支払期日はいづれも同年一二月一五日)の二、三日前に、同年一二月末日まで支払期限猶予の特約があつたので、それまでは時効は進行せず、それから一年以内後の昭和四八年一〇月三一日に本件手形金取立訴訟が提起されているから、右手形三枚共時効によつて債務は消滅していない旨判示したのは、少くとも右甲第一号証の昭和四七年八月三一日支払期日の手形一枚について民事訴訟法三九五条第一項第六号所定の理由不備の違法があり、破棄を免れない。
次に理由を述べる。
一、原判決書五枚目裏九行目から一一行目にかけて、「約束手形の裏書人と所持人との間で支払猶予の特約がなされた場合は、右合意の当事者間では右猶予の期間中は消滅時効は進行しない」とし、さらに、同書六枚目表三行目から四行目にかけて、「右猶予の期間中は消滅時効は進行せず、右期間の翌日から時効期間は進行を始める」としている。
二、しかし、本件約束手形三通につき、被上告人が上告人に対して有する遡求権の消滅時効の起算点は満期日であつて、(手形法第七七条第一項第八号、同第七〇条第二項)、時効中断事由がない限り同日から一年で時効が完成するものである。わが法制下にあつて時効完成を妨げる事由としては、民法第一四七条各号の中断事由、同法第一五八条乃至同第一六一条の時効完成の停止、さらに最高裁判例によつて肯定されるに至つた時効完成後の承認等による時効援用権の喪失等に限られるものである。然るに原判決は、前記一記載の表現からして、本件において「時効進行の停止」なる概念を肯定しているが、わが法制下にこれを根拠付ける法条はなく、本件における支払猶予の特約は裁判外で行なわれたものであるから、訴訟上の請求においてその訴訟係属中は時効中断の効力が継続するとの最高裁判例が適用される事案でもない。また、原審は、本件において時効が中断したことを明白に理由とするものでなく、いづれの中断事由に該当するものかを推認しうる表現すらない。
三、原審の確定した事実によれば、原判決書四枚目裏九行目から五枚目表二行目にかけて、上告人が被上告人に満期から四ケ月間支払を猶予してほしい旨懇請し、被上告人がこれを承認したとして、支払猶予契約の存在を肯定し、その契約成立時を各手形の満期の「直前」と認定している。而し手形期日の変更は手形が有価証券であるから手形記載の期日を訂正しない限り、期日変更はあり得ない。又直前というのであれば勿論満期前の日時であり、かつ原審は本件手形について満期前の遡求事件(手形法第七七条第一項第四号、第四三条)を充足したとの事実認定を為していないから、満期前の日時に支払猶予契約が為されても、将来発生する遡求債務の承認の意義は別論として、未だ遡求権が成立も発生もしていないので、その時効中断なるものは全く考えられない。また、原審は支払猶予期間満了日に新たな時効中断事由があつたと認定していないから、右期間の翌日から時効期間が進行するということもあり得ない。このことは末尾添付の大正二年二月二五日東京控訴院判決(新聞八六八号)の判旨と同旨であり、原審の判断はこれに反するものである。
四、さらに、原審の判断によれば、当事者間の支払猶予契約をもつて時効進行の停止をなすことができることになり、これは実質的に時効期間伸長契約と同視するものであつて、不明な法律関係から債務者を早期に解放させる等種々の目的と機能をもつ時効制度の趣旨を潜脱する脱法解釈をなし公序良俗規定(民法第九〇条)に違反するものである(注釈民法五巻五六頁等参照)。
原判決は以上の諸点を合法的に解釈しうる理由が全く付されていない。
第二点 原判決は、時効についての手形法第七七条一項八号、同第七〇条第二項、民法第一編第六章の規定等の解釈適用を誤まり、判決に重大な影響を及ぼしたものであるから、民事訴訟法第三九四条により破棄を免れない。その理由は、前記第一点で詳述したとおり、
一、法令に根拠のない「時効進行の停止」なる概念を肯定している。
二、時効中断事由に関する規定(民法第一四七条)の解釈適用を誤まり、本件手形遡求権の発生前に時効中断を認め、また、支払猶予期間満了時に何ら時効中断事由がないのに時効の中断を認め右期間満了日の翌日から時効が進行すると判断しているものである。
三、当事者間でなされた単なる支払猶予契約をもつて、時効制度の趣旨を潜脱する時効期間伸長契約と実質的に同一の解釈をなし、公序良俗規定(民法第九〇条)に違反した脱法解釈を為しているものである。<以下、省略>